終戦記念日に思うこと

近くの丘から見えた富士山の影
終戦80年
8月15日
節目の年だからか
8月に入った頃から
例年に増して、戦争関連の特集がTVで、新聞で多く報じられている。
私の気持ちも
例年にないほど
ざわついた。
ご先祖様が
私の元にいらっしゃっているのではないかと思うほどに。
なので
戦争と私の家族について
少し残しておこうと思う。
私の父の兄、私にとっての叔父は
1941年12月24日マニラ侵攻作戦にて23年の短き命を閉じた。
私の実家の仏壇の横には、
叔父の遺品が桐箱に入って保管されていた。
年に1〜2度、私の母が、
お天気の良い日に日干ししていた。
幼い頃の私は、
その一つ一つの品が持つ悲しみを理解できず、
宝箱が開封されるかのごとく、
その様子、その品々を楽しんでいた。
成長するにつれ
その宝箱に日頃は封じ込められている悲しみが
私の中にもじわじわと入り込んできた。
私の祖母が我が子を思いお願いして歩いたのであろう1000人針。
私の脳裏に私の記憶にはない祖母が道端に立ち、
行き交う人に頭を下げている姿が思い浮かぶ。
最後の瞬間まで身に着けていらっしゃたのであろう。
それには血の跡がついていた。
近しい人からの寄せ書きが書かれた日の丸の旗。
出兵の際、駅のホームでこの日の丸の旗を掲げながら
万歳三唱の中出立される姿が目に浮かぶ。
軍人手帳。
これは、検閲のため、軍事機密のため、
かなりのページが破られていた。
戦場で使ったのであろう軍から支給されたと思わしき
歯ブラシ等生活雑貨。
軍服を着て、馬に乗る姿を写した写真もあった。
写真の中でしかお会いすることのない叔父。
そのお姿は、永遠に青年であり
私はいつの間にか
そのお年を超えていた。
私が過ごしたこの時間を
私が経験させて頂いた数々の想い出を
生まれた時代が違う
たったそれだけの理由で
奪われてしまった若人たちがいたことを
決して忘れてはいけない。
叔父は家庭を持たぬままこの世を去った。
だから
私は叔父の生きた証を、
次の世代(私の子供)に
語り継いでいかなくてはならないのだと思っている。
遺品の中には、遺書もあった。
『手紙を出したい心は一杯でありましたが
防諜防諜で一切禁じられておりました。
これも皆国家の為、東洋平和の為であり我々兵隊は
真から守るべきが我々の祖先の為自分の為であります。』
『隊長殿や中隊長、中隊幹部の話を聴きますれば
二度と生きて帰れそうにもありません。
もしかすると××に上陸するかせぬかの内に死するかもしれません。
すでに中隊で各人の遺髪遺爪を取って残しましたし
自分も小包と一緒に入れておきました。
あとは大命降下を待つばかりです。
私は元気で元気で征途につきまする。
私の事はくれぐれもご心配なく
父母上様の御達者で御暮らし下さる事を何処に行きましても
御祈り致しまする。』
防諜検閲があって、本当の気持ちが綴られているとは到底考えられまい。
最後になるかもしれない便りに
自分の気持ちをさておき、
父母のこと、兄弟のことを心配するばかりの文面・・・
たとえ面と向かって会う機会があったとしても、
親子であったとしても、
本当の気持ちを伝え合う事はできなかった・・・そんな時代だったのであろう。
私の祖父の命日は、8月15日である。
私の祖父は、TVで戦争のニュースが流れると必ず涙が止まらなかったらしい。
あまりの悲しみから、戦争の話、亡き息子の話は一切されなかったらしい。
それほど深い悲しみの中にいらっしゃったのだろう。
私の父が孫(私の子供)に宛てた手紙の中の一節
『今まで生きていた中で一番楽しかったこと
家族が増えた時です。結婚したとき、子供ができたとき、孫ができたとき』
『今まで生きてきた中でつらかったこと
小学校5年生のとき、長兄が大東亜戦争開戦してすぐに
フィリピンで戦死したとき』
『中学3年の8月終戦、その後2〜3年間はほとんど記憶がない』
残された家族にも
何年の月日が経とうとも深い心の傷が消える事はない。
このような悲しい歴史。
2度と繰り返してはならない。
心ががざわついてならない。